facebookは昔のハナシ。
ワケあって、facebookに7年ぶりぐらいにログインすることになった。いろいろ見ていくうちになんだかゾワっとしてしまったが、ゾワっとしつつもどんどん見てしまって、気づけば2時間経っていた。
私は結局のところ、何も変わっていないのだろうか。
私自身の投稿がもう見ていられなかった。別にもう誰も見ていないと思うのだが、今日の私の様に、何かワケあって久々に開いた人が見る可能性もなくはない。まあ、最悪そんなことはどうでも良いのだが、シンプルに7年前の自分の表現(投稿)が恥ずかしかった。なんだか自慢げだし。
「友達」の投稿も似た様なものだったかもしれないが、友達の写真を見るのは楽しかった。私が知らない「友達」の様子。特に、子どもができていたりすると「おぉ」と思ったが、私の年齢だけでいえば、そうか、当たり前だよな、おおこいつも子どもできてるわ。などと思ったりするのが楽しかった。なんで楽しかったのかはよくわからない。
SNSあるあるかもしれないが、なんだか絶妙な気分になった。今の自分は何てつまらないんだとか、こんなことをしてる場合じゃないとか、いやいや実際俺も結構幸せだよなとか。
facebookを見ていて、なんだか私だけが時間を進められていない様な、生き遅れた感覚にも少しなった。
まあしかし、皆んないい具合にやっておればよいナ。
私の投稿は確かに恥ずかしかった。果たしてこのブログはどうなるのだろうか。恥ずかしくない様に書いているつもりだが、どうなることやら。
また7年後、私はこのブログを見て恥ずかしいと思うのだろうか。
そしてそれを成長と言うのだろうか。
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妻LOVE
名古屋で友人の結婚式に出席。
この後私は山梨方面へ用事有り。
電車に乗るまで少し時間があるから個室ビデオ屋へ入った。
少し眠って、着替えたいのだった。
2時間程寝た。
体が疲れているのか、進む時計の針をひとまず追っているだけだった。
時間が来たので動き出さねばならないが、あまりその気になれない。
とはいえ、電車に乗り遅れるわけにもいかない。背に腹はかえられぬ。スリー、ツー、ワン、GO。
行動開始だコノヤロウ。
電車に乗ったら乗ったで、自由席は座れない感じ。
絶望だよ絶望。しかし次の瞬間諦めがついて、悪くない心持ちになった。(これが覚悟か)
結局2時間立ったまま景色を眺めたり、本を読んだりしていた。
塩尻着。乗り換え。
電車はまたしても座れない。脚がだるい。
空いている席を探しに車両を移ることもしたくない。故に立つ他なし。
妻がいたら、迷うことなく空いている席を探しに行くのだろうな。と思った。
そして私は、そんな妻が好きなのだと気づいた。
妻は元気だろうか。出張で2週間弱会っていない。
結構会いたい。
妻に、会いたい。
私は妻がいないと、全然駄目である。
そしてそれは妻も同様なのだ(これは私の希望的観測である)。
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バカでも利口でもどっちでもいいが、いい奴であってほしい。
仮に私に子どもができたら、
「お前はバカでも利口でもどっちでもいい。でも、いい奴ではあれよ。」と言いたい。
子どもができたら、と言ったが、割と全人類に対する願いだったりもする。
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食欲に、かんぱい
体調、悪し。
昼間、ハラスをたらふく食ったのがよくなかったか。今になって脂の感じが気持ち悪い。
軽度の吐き気、あり。
明らかに食い過ぎである。
食べることは大好きだが、たまにこういう目にもあう。
ついつい食べすぎてしまって、気持ち悪くなる。
といってこれに懲りることはなく、また同じことをどこかで起こす。
ハラスの食い過ぎで気持ち悪くなったのも、おそらく初めてでない。
やれやれだ。
マツコデラックスが、健康診断の数値上では割と健康だという話を、どこかで聞いたことがある。
それを思うと、私などはまだまだ希望がありそうではある。
しかし、マツコ氏の膝などは、やはりあまりよくないのではないかと邪推する。
まあなんにせよ、食べ過ぎを控えねば。
痩せるものも痩せない。
しかし、食欲は、手強い。
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ROUTINE×ROUTINE
ルーティンは、必ず崩れる。
そうなった時大事なのは、普段の生活に戻ったら、また少しずつ始めるということだ。
実家に帰省がてら両親と旅行。
20年ぶりに会った友達と牛タンを食べる。
昔お世話になった人と老人ホームで面会。
全くうまく言えないが、なんだか本当に、人生はあっという間なんだと思った。
いい人生とはなんなのかと思ったりするが、結局は個人の納得感か。
わからない。
最期を迎える時「最悪な人生だった」と思って逝くことも実はそう無いのかもしれない。
なんやかや「いい人生だった」と思って逝くのかもしれない。
人生の時間を如何に過ごそうと、結局同じ様なところに流れ着くというオチもあるのかもしれない。
わからない。
ただなんとなく、私は私なりには思う存分やっときたいなとは思った。
私の体はひとまずまだ痛いところもなく、
頭もマトモだと思っている。
目も歯も、まだある。
心も腐ってはいない。
実際、いつまであるかわかったもんでもない。
普段の生活に戻ったら、こういうことを常日頃考えたりしない。
こういうことはたまに考えるに限る。
今の私に必要なのは、郷愁でもマインドセットでもなく、やりたいことを少しずつ実際にやることだ。
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メモ、それは君が見た光
今週のお題「メモ」
なにかというとスマホにメモする。
日記的なこと、直近でやるべきこと、アイデア的なこと、今の心境的なこと、仕事に関わること、などなど。
いつからこの習慣を持ったかわからない。
これが良いこととも悪いこととも思わない。
ただ、やめられない。
ほとんどのメモは見返されることもなく、溜まっていく一方だ。
たまに何かの気まぐれで見返してみても、何ということでもなかったりする。
かといって、メモすることをやめる気にもなれない。なぜだろうか。
メモをしている時、私は一種の高揚感を得ているのかもしれない、と今書きながら思った。
閃いたアイデアを逃すことなく書けた。とか。
やるべきことはメモしておけばダイジョーブ。とか。
書くこと自体が一種のセラピーになっている。とか。
メモをとること自体が、ドーパミンが出ることにもつながっているのかもしれない。
メモに書いたやりたいことが全て現実のものになったり、二度と忘れない記憶になったり、しない。
しかし、
全てのものは二度つくられる。『7つの習慣』
などとも言われることがあるように、
自分で思ってもみなかったことは、結局なかなか実現されないのかもしれない。
メモすることから始まることも、きっとある。
メモは、私たちができる最も簡単な自己表現かもしれない。
上手い下手はない。
ひたすらに自分にとっていいことがあればいいなと思いながら、書く。
それは私が見た光。
私が見た希望。
なのかもしれない。
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スマートな忙しさ
何かをやろうとしていたが、忘れてしまった。
スマホ、スイスイ。
気になったらすぐ調べる習慣を得て、失ったものはなんだろう。
何かあったらすぐ知らせてくれる通知機能によって、失ったものはなんだろう。
それが「心のゆとり」だとしたら、スマホをやめることを真剣に考えてもいいのかもしれない。
世間では普通に使われているものが、人によっては合わないこともあると思う。
わかっていてもやめられないことの代表的なものに、煙草がある。
煙草をやめるのは容易でない。
しかし、煙草よりもやめるのが難しいものに、「スマホを触る」というものがある。
煙草を禁じるのを「禁煙」と言うのなら、
スマホを禁じることを「禁スマ」と言ってもなんら差し支えないだろう。(若干、ダサいかもしれない。今思いついてしまって、とめられなかっただけです)
まあ言葉はなんでもいいけれど、とにかく禁スマはかなり難しい。
現代に生きている以上、今あるテクノロジーに遅かれ早かれ従わなくてはならない。この先もずっと。
それが面倒だ。
個人の意思で取捨選択ができるそぶりをされながらも、実際には結局いいように流されている。スマホに懐疑的だった人も結局スマホを使うようになる。そういうものだ。
だから、どうせ使うのなら早めに導入しておこう、という動きも当然の如く出てくる。
他に遅れを取らない様に。 理解は、できる。
遅れを取るほど、世間に取り残されていき、不利になり、つぶされる。そんなことあってはならない。と。 理解は、できる。
しかしその一方で、そんなことばかりで本当にいいのか、と思うときがある。
この無駄な焦燥感はなんだ。
この忙しい感じはなんだ。
なぜ私はこの通知のいちいちに反応を示さなければならないのか。
なぜ私はこんなにもこの画面を見なければならないのか。
私は最近心から安らいだことがあったか。
スピードが、生きづらいほどに速くはないか。
スマホのせいにしすぎている節はある。ただ、どうしても思わないわけにはいかない。
スマホを見ているのは自分であり、別に見なければいいだけのことである。
あらゆる道具は使い方次第である。
わかっている。しかしそれは半ば無理な相談だし、ある種詭弁である。
仕事のメッセージを私の権限でシカトできるか。いや、できない。
仕事相手がこちらに気を遣ったペースでメッセージができるか。いや、できない。
やめようとしてもやめられない。それだけだ。
みんなもうリアルタイムでのやりとりが当たり前だし、手元ですぐ調べる癖もついてしまった。
中毒性がある。
できるから、やる。それだけである。
できるのにやらなければ、なぜやらないのかと問われる。
細かく細かく、ちまちまと対応することが求められる。
面倒である。これだからスマホのことが嫌いだ。本当は要らないが、時代がそれを許さない。
結局、スマホがある方がどう考えても忙しいのである。
鷹揚な人を見なくなったのは気のせいか。
最近の流行りは、煙草も吸わず、クレバーで、ITに明るい、そういう人間だ。
結構なことだ。
ただそれは、面白いのだろうか。
幸せなのだろうか。
ITがない時代に生まれ死んでいきたかったと本気で思う時がある。
どうせなきゃないで、なんとかやるんだし。
といいつつ、次の瞬間私はスマホを触っている。
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